デザインから見た自動車の歴史
量産前を3つ、量産後を6つに分けることができる
1 | 蒸気車の時代 | 1770-1885 | キュノーの蒸気車、乗り合い蒸気、アメリカの蒸気車 |
2 | 馬なし馬車の時代 | 1886-1940 | ベンツ、ダイムラーのガソリン車 |
3 | 幌型の時代 | 1905-1920 | T型フォード |
4 | 箱型の時代 | 1925-1933 | シボレー2ドアセダン |
5 | 流線型の時代 | 934-1947 | クライスラー-エアフロー、タトラT-77、DKF、リンカーンーゼファー、トヨタAA、ビュイックリミテッド |
6 | 3BOXの時代Ⅰ | 1948-1953 | 1949年型フォード、コンサル、タナウス |
7 | 3BOXの時代Ⅱ | 1954-1961 | 1959年型キャデラック、1960年型ダッジ |
8 | 3BOXの時代Ⅲ | 1962-1970 | 1963年型クライスラーニューポート、1965年型ムスタング、タナウス12M、モーリス110、ルノー16 |
9 | 台形の時代 | 1970- | VWゴルフ、ランチャデルタ、オペルカデット、フィアットリモ、ホンダシビック、三菱ミラージュ |
1蒸気車の時代
キュノーの蒸気車が、初めての自動車とされている。軍用に大砲を引くために試作されたもの。
大きな蒸気機関を1つの車輪に載せ、この車輪を
蒸気で回した。方向転換は蒸気機関ごと車輪を回転させるもので、諸所の問題はあるものの、単純で合理的な構造をしていた。
ヨーロッパでは、その後、乗り合い蒸気が実用化される。定められた区間を往復するもので、現在の路線バスのように運行された。
これらは蒸気機関車の発展とともに衰退することとなる。
特に、イギリスでは赤旗法(車の前を赤い旗を持った人間が先導することを義務付ける)の成立により、消滅してしまった。
その後、アメリカでは個人で使用する蒸気車が現れた。これはガソリン車とほぼ同時期に現れており、ガソリン車と競合していたが、
やがて現れた低価格の量産車、T型フォードによって消えていった。
2馬なし馬車の時代
ドイツのダイムラーとベンツがそれぞれ個別にガソリン自動車を開発する。
蒸気機関に比べ小型で高出力なガソリンエンジンは自動車の動力として適しており、ドイツ、フランスを中心にガソリン自動車が生産されるようになった。
イギリスでも赤旗法が廃止されると自動車産業が発達し、ドイツ、フランスに追いつくこととなった。
3幌型の時代
アメリカは自動車については後進国であったが、広い国土を持ち、潜在的な需要は大いに存在していた。
やがてフォードがT型フォードを大量生産し始め、アメリカが自動車産業の中心となってゆく。
このころの自動車は、座席が外気と隔てられておらず、わずかに幌を用いて雨をしのぐ程度であった。
このため、快適性は低く、移動するという目的を果せばよいという状況であった。
4箱型の時代
低価格で大量に生産されたT型フォードは、やがて売れなくなってしまう。需要は、単に移動するだけでなく、
快適性やデザイン性も求めるようになったためである。
座席を外気から遮断するクローズドボディーが自動車の主流となってゆく。
初期の自動車は、馬力が小さく、車重を増やすことができなかったが、このころには馬力も向上していた。
このころの自動車のスタイルは、全部にラジエターのついたエンジンルームを備え、後部に居室のついたものが主流になる。
5流線型の時代
このころの自動車はまだまだ非力であった。スピードを出すため、空気抵抗を減らす、流線型を外観に適用する研究がなされた。
第一次大戦中に飛行機の設計をしていた技術者が自自動車業界に入ってきた影響もある。
ポルシェ博士がヒットラーの命により設計楽天 したKDF(のちのWV)が代表的なものでsる。
しかし、当時の技術で流線型の自動車を量産するのは難しく、
あまり空力的には効果はないが流線型に見える「疑似流線型」の車が多く生産されることとなった。
63BOXの時代Ⅰ
第2次世界大戦の終了とともに、軍需産業に力を入れていた自動車産業も自動車の生産に力を入れ始める。
エンジンルーム、居住空間、トランクルームの3つの箱をつなげた外観が戦後の自動車の主流となる。
居住空間を広げるため、側面の壁がのっぺりとした平面になっていることも特徴の一つである。
73BOXの時代Ⅱ
繁栄を続けるアメリカでは、3BOXのおとなしい外観では飽き足らず、過度に装飾性を持った車が売れるようになる。
テールフィン、ラップアラウンドウィンドウ、過度な装飾を施したフロントグリルなどが特徴である。
アメリカだけでなく、ヨーロッパのメーカーにも影響が及んだ。
83BOXの時代Ⅲ
こうした過度な装飾はすぐに飽きられてしまい、アメリカではヨーロッパからのおとなしい外観の輸入車が増えた。
また、スポーツスペシャリティーカーの登場など、市場は次第に多様化していった。
日本車が実力をつけ、アメリカへの輸出が増えたのもこのころである。
9台形の時代
アメリカでは交通事故の原因として、メーカーの責任を問う声が増えてきた。
これに伴い、自動車安全に関する法律が制定されたり、アメリカ運輸局が設置される。
また、自動車の安全基準も制定されることとなった。
バンパーは従来、デザイン性が重視されていたが、以降、安全性を優先させる設計となり、以降の自動車外観に大きな変化をもたらした。
加えて石油危機が訪れると小型自動車の需要が高まり、優れた日本車が大量にアメリカへ輸出され輸出されるようになる。
国際的な分業も増え、自動車のデザインは今まであった国民性を薄れさせ、世界的に似通った外観を持つようになる。
エンジンルームとハッチバックの居室という台形をした小型車が世界中で生産されるようになる。
T型フォードについて
T型フォードは1909年より1927年まで1500万台も生産された、最初の量産自動車である。
名前の由来
フォードは量産を始める前に試作車を作成した。
最初の試作車をA型と名付け、次をB型とした。初期の試作車はいづれも満足できるものではなく、T型試作車をもって初めて満足し、これを生産することにした。
T型フォード成功の理由
ヨーロッパでは馬車や汽車という既得権益があり、自動車の参入が拒まれた。
アメリカには潜在的な需要があった。
ほかの産業で流れ作業など、大量生産に必要な下地が出来上がっていた。
流れ作業、専用工具、専用機械を使用し、組立時間を短縮作業員にそれぞれ単純な仕事を割り当て、熟練工を不要にした。
T型フォード凋落の理由
買い替え需要に答えられなかった。長期間同じものを作り続けた。
最低限の装備しかなく、高級志向に乗れなかった。買い替えで他社の価格の高い車を選ぶふとが増えた。
最終更新日: 2013-11-08 20:37:49