日本の歴代衣装写真集
日本の昔の衣装を再現した写真集の紹介です。国会図書館のサイトで見つけました。
コスプレなどに参考になるかと思い、転載しています。
転載元は「歴代風俗写真集」大正5年刊行、著作権切れ
説明文章はほぼ元本のままです。
幕末の頃の女官の衣装の写真
幕末女官外出姿
幕末女官外出の姿にして衣服を冬夏二期に分てり。
冬は白襦袢、白下着白表着を着し、その 上に掻取を着す。
表着は表裏羽二重白無垢にしてその上に襦子或は縮緬の判幅の合せ帯をなす。
色は年若きは赤、年加ふるに従ひて桃色を経て紫に至る。
前結にて結方は文庫たりき。掻取は綸子或は縮緬にて色文様不定、形状は詰袖にて脇あかず。
比上に腰に腰紐結びてからげ、被衣を冠る。
被衣は絽にて漏斗目の如く腰に色変あり。
年若きは振袖、年加はるに従ひ袖小なりき。
夏は越後晒などの文様ある表着を「細ごめ」と称して着し之に付帯を結び後ろにて下に結び垂る。
付帯は両端に心の入りたる帯なり。而して被衣を着るは前に同じ。
髪風は最も若きは竹の節、次はつぶ髷、長じては下げ下、さげ上げにて、後の両者は殿上にては元結を解きて垂髪さするものなり。
下駄は黒塗下駄にて若きは赤三筋の鼻緒、中年以上は紫三筋の鼻緒なりきといふ。
第一図は冬姿、第二図は着用法を示す。
第三図は夏姿殿上の場合、付帯の結び様を見るべく、第四図は夏の外出姿、第五図は夏冬の外出姿とす。
左に示せるは前記髷の模型より写し、形状なるが、元結は紫紐を用るたるなり。
根むらくは本集はこの髭を実際に結ぶの準備整はず、普通の島田姿を写真としたれど、次回には京都に於ける美髪講習会と協力して実際ににこの髷を結び、更に本集に掲載する所あるべし。
徳川幕府大礼装の写真
徳川幕府大礼装にて上は将軍より侍従以上の服なり。
名は直垂にて、鳥烏帽子将軍は右折他は左折左眉を用い、直垂は下に冬は白半絹の小袖、夏は白帷子を着し、袴は長袴を用いる。
直垂の地は精好、将軍は紫の例あれど他は無地色不定、胸紐、露、菊綴も色不定なり。
(袖括のひもはなきを普通とす)
袴の腰は白精好を用いる。
小刀を指し、中啓を持つ。
帖紙を懐中に入れる。
平安朝の比叡山僧兵の写真
この服装は平安朝末期における比叡山僧兵の扮装にして頭を裏頭頭巾にて包み、白小袖に腹巻を着し、黒色の空衣を着し、石帯を締め、黒皮太刀、脇差を佩び、黒色高下駄を穿ち、長刀(長巻にて代用)を持てり。
頭巾、空衣、下駄はと特に古式に製せられしものなれば注意すべし。
懸想文売りの写真
懸想文売りはその名既に中世に見ゆれども、江戸時代寛文の頃より書に多く散見す。
元禄の頃一時中絶せしが、文化年間に再興せらる。
毎歳正月元日より十五日迄都大路に来り、元は洗米を紙に包み、之を売りて祝詞を叙し、一転して縁談、商売繁盛、富貴円満を祈る。
符札を売るに至りしが、再興後は艶書めきたる玉章を売りき。
装束も始は編笠小袖の姿なりしが、天和の頃より鳥帽子素襖に覆面し、後世見るが姿となりぬ。
図に示せるは後世の姿なれど、素襖を水干と改めしは更に優美を欲せしが為なり。
立鳥帽子、紅梅色水干に、袖に熊笹松の風流の付物あり、袴は元は青萌黄など多きも今日は白を用いる。
苔脛巾、草鞋穿ち、木綿の覆面す、また白紙をあてるものもあり。梅枝には玉章を吊るせるも、後世の物には文箱を吊して玉章なきもあり。
かくて「文召せ」「懸想文」とて巻街に売る。
本会はかかる優美の風俗が明治維新以降永く廃頽せるを遺憾とし、再興して今後は例年元旦街にその風流なる姿を現せんとす。
又一興といふべし。
鎌倉時代武士甲胃姿の写真
ここに撮影せるは大略鎌倉時代の武士の甲冑姿を表せるなり。
頭にはモミ烏帽子を冠り、兜を戴く時は、 その上に冠るなり。
兜は鎌形うてる二方白の星兜にて三枚しころを有す。鎧下には鎧直垂を着し、
その上に 胴丸の鎧を着す。左右杏葉二枚を八枚の草摺を有せり、籠手は鯰手甲を有し(親指なき手甲)、
本邦唯一 の古き籠手なる南都興福寺蔵義経の籠手の模造に係り、
脛当ては大立欅(膝より上へ鉄板の上れるもの) にてまた古式を模倣せるものなれば注意すべし、太刀は糸巻太刀にて熊皮の尻鞘を嵌め、
脇差も座姿勢のの写真には義家公所持を伝えらるる海老鞘巻の模造を挿せるまた見るべきものなり。
その他重藤の弓、逆軍扇、頬貫(毛履)等一切備はりて、そぞろ当時の武人陣中にあるを想はしむ。
江戸時代初期の遊女の写真
これは江戸時代初期、明暦の頃における遊女の姿を粉せしものにして、髪は兵庫髷なり。
兵庫髷は摂津兵庫の遊女より結ひ初めしものにて、唐輪の変形なり。
寛永の頃より遊女間に流行し、中期には立横両兵庫に分れたり。
髷は私が指導せる古今美髪講習会員の手に成り、従来、髪等にて忽諸に附せし毛筋、髪などの
形状にも腐心して専らその真相を再現するに注意したり。衣服は地紋綸子にて刺繍鹿ノ子文様あり。
徳川初期のものなるも縫い改められ形状後世に近きを借む、帯は当時流行せし幅二寸五分位の格子文様にして、かるた結の前帯をなせり。
蓋し前帯はこの頃ょり始りしものにて、祇園清水の茶店女参詣人多き時帯の解けしを結びて後に廻す暇なきより濫解を発せりといふ。
その他煙管、双六、鏡台などの調度 皆当代傾城愛玩の品なれば、副へて彼らが生活状態をしのぶ料となせり。
山伏の服装
ここにに示せるは当山派即ち醍醐三宝院恵印部の修験者(山伏)の服装にして何れも大峯入峯の姿なり。
三宝院において本会研究会開催の時に撮影した。
斧を肩にせるは小先達の服装にして、当道の略装たり。頭には頭巾を戴き青き紐にて結び
上に黄色の掛衣、紫色の袴を穿ち、磨紫金の袈裟を懸く。この袈裟は紫に黒みある色にして金色の輪宝を附し、片方は紐となれり。
自脛巾草履を穿ち、黒色の葛を負い、斧楽天 を肩にせり。その横に桐紋の箱あり。こは今上天皇の尊牌
を入れたるものにて、大峯にて玉体の御安泰を祈祷せむがためなり、札には三宝院門跡の文字を書かれたり。
因みに葛の中には尊供用の舎利(自米)如意(杓子)赤舎利(小豆)鍋等を納めをくものをす。
第3第4図は大先達の法螺を持てる正装にして、頭巾をいただき、上には紫色の鈴懸に同色の袴下に白衣を着し自地金備に自色の房ある結袈裟、自脛巾、草履を着す。
腰には脇に小き法螺の附着せる螺緒といへる紐を結びたり。
鈴懸は懐に赤き紐あるを以て後にて結び合せり。
葛には赤き紐を附す。第三図は法螺を吹き、第四圓は錫杖を持てり。
扇は檜扇にて懐に入る。後方に見ゆる門は秀吉の桃山城にありしものなるを 当寺に移伝せしものにて現に特別保護建造物たり。五七の桐紋を窺ふべし。
第五図は前記両先達の背面にて左手の人の葛は黒塗の板葛にして黒紐を附す。
第六図は門跡(修験の大祇師)の入峯の略装とす。
頭巾は緋紐を以て結び、白衣の上に緋の掛衣、水色の水貫(奴袴の類)を穿ち結袈裟は赤地金龍、房も赤なり。檜扇には自房を附す。畳の上に菌を敷きて座す。
後方の興は同寺門跡の御料なるが、一時光格天皇の御乗用さなりしものなり。
その後方の所は三宝院庭殿泉殿にして連子窓見ゆ。場所は寝殿願より西向に撮影せしなり。
最終更新日: 2019-11-25 09:13:17